「努力を継続する事が正義である」というような記事をよく目にする。
脳科学や行動経済学的に効率良く続けるための脳ハック的な記事も多く、そういう手法で上手く継続のサイクルを作れた方も多くいらっしゃるはずで、 そんな方々の成功体験が、広くネット上に展開されているのだろう。
ただ、なんとなく私は「努力と継続」言説に対して違和感を感じる。
かく言う私自身、ある程度習慣化ができるようになってきた人間の一人だと思う。
例えば筋トレ(ガリガリ体型だったのを1年で10kg近く増量)や、日々の振り返り(平日は毎日続けている)など、昔に比べて「努力」っぽいことを「継続」することが上手くなっていると思う。
しかし、暫く継続していたけど途中で何だか意義が見いだせなくなって辞めたり、そもそも何を「努力」すべきか思いつかずに焦りが募るばかりのときもある。
振り返ると、こういう事は「努力と継続」という行動ばかりに意識が向き、その行動の結果で獲得したい意図が不明確なときに起きているように思う。
先に書いた"違和感"もまさにここで、 なぜ努力を継続すべきか? という事が置き去りにれているように思うのだ。
確かに、努力や継続はそれ自体が美徳とみなされがちだし、それをやるだけでも結構な自己肯定感を得られる。 だから皆無条件に「努力や継続はいいことだ」という。
でもその結果得たいものは何なのか?
成功したい?でも成功って具体的になに?
金持ちになりたい?金持ちっていくらが金持ちなの?
頑張ってる自分が好き?まあわからんでもないが。。他にも幸せになる方法あるのでは?
例えばダイエット。きっとモテたいとか自分のコンプレックス解消のためにダイエットをするのだと思うし、そこに悩みがない人はダイエットはしない。また、他人にダイエットを強要することもそうそうない。
でも「努力と継続」は、何故? を通り越して迫ってくる。
盲目的な「努力と継続」でも、ある程度の自己肯定感を得られる。ただ、それだけで継続し続けるのは難しく、きっと飽きてしまう。自己肯定感だけでモチベーションを保つのには限界がある。
「努力と継続の効用」は正論なので、自分もなにかしなくてはと焦りを覚える。 だけど、努力の先の姿が見いだせないなら、それに拘らなくていいように思うのだ。
例えば、今の状況がつまらないのなら、好きな本や映画を見たり、親友と酒を飲んだり、一人で趣味に没頭したり、新しい習い事初めて見たりすればいい。一生懸命新しいスキルの勉強をすることだけが正解ではないはず。
正論は時に暴力にもなりうる。「努力と継続」がある種の強迫観念となり、本来得られたであろう幸せな時間を逃す事になるかもしれない。
「今の自分にとって、努力を継続した結果どうなりたいのか?」
この問いかけを忘れないようにしたいなと思う。